おはようございます。
整体庵大空の下大前です。
今日は、
『自律神経失調症を引き起こす「義務感」とは?』
というお話です。
「整体の先生がなぜ、国語の授業みたいな話なんてするの?」
と思われた方もいるかもしれません。
「義務」という言葉を辞書で引くと、
“法律上または道徳上、人や団体がしなくてはならない、また、してはならないこと”
とあります。
義務はルールのようなものです。
これって、
どう見ても、
当たり前のことのように思いますよね。。
これのどこが、
自律神経失調症はじめ、うつ病、パニック障害などの精神疾患の原因になるのか?
実はこの義務感が、
精神的に身体が病んでしまう大きな原因になるのです。
今日は、
その「義務感」のお話をしてみたいと思います。
義務感の真意を理解することが出来れば、
あなたが、悩む世界を壊すきっかけになるかもしれません。
それではお話していきましょう。
義務感で生きることは楽?
義務感は、
「◯◯しなければならない」
「◯◯をして行くことが大事だ」
というような、
生きていく上でのルールのようなものです。
確かに、
義務には、
私たちが暮らしている日本にある、
税金を収める義務や、子供に教育を受けさせる義務教育、
勤労の義務など、
みんなが暮らすためのルールがあります。
こうしたルールは、
そこで暮らすものにとっては守るルールですし、
そのルールの中で、
じゃあどうしていこうか?ということをみなさん考えて日々生活されていると思います。
しかし、
こういう義務が膨らみ、
本来の働きを超えて過剰になってくると、
みんなが快適に暮らすためのルールではなく、
他人の期待に答えようとする「義務」に変化すると、
自分の感情や、やりたい事を押さえ込み、
自分以外の誰かの期待に応えるために生きることになり、
これが大きく精神的なトラブルを引き起こすことに繋がります。
なぜ、
自分以外の誰かの期待に応えるために生きるのか?
活字で見ると、
「自分はこんなことしてるかなー?」
と思うことでしょう。
でも実は、
自分で自分の道を決めることよりも、
他人の期待に答えようと、
自分の感情を抑圧して生きることの方が楽な部分もあるからなんです。
現代社会は、
特に社会の最低限のルール以外にも、
「こう生きるべき」というルールが多く、
コンプライアンスや、クレームなどに対応するために、
ガッチガチに固められた狭いルールの中で、
窮屈に生きることを強いる風潮があります。
そんな中、
自分の意思で道を決めて、自分のルールで生きることに、
より大きなエネルギーを必要なように感じてしまうのかもしれません。
だったら、自分の感情を抑え込む方が、
大きなエネルギーを使って、周りに批判されながらも進むことより楽だろうと思う人がいても普通ですね。
しかし、
自分の感情を抑圧すること程、
自分自身の身体に不調を引き起こすことはありません。
みんなで決めた義務(法律)は守っても、
自分以外のためにあなたが作った義務感は無くしても良いのではないでしょうか?
法律がもしなければ…?
こういう話をしていると、
多くの方が、
「でも、法律とか、守らなければいけない義務や道徳って大切じゃないのか?」
と言われます。
これは、
あくまで僕の自論ですが…
少し、
現実世界から切り離し、想像して見てください。
今の世の中で、法律がなくなれば、
無法地帯になるかもしれません。
でも、
もともと法律を作らなければいけなくなったのはなぜでしょう?
それは、
何かに束縛する事を嫌がり、それに反発する人を抑え込むために生まれたものも多いでしょう。
法律を作る前提には、
いつの時代もある特定の何かに反発する人がいた事を示しています。
これは現代でもそうですが、
法律の抜け目を利用する人が現れては、
それを法律で潰すというような、イタチごっこ状態です。
法律があるから、
人は、それをやりたくなるというような側面もあります。
入ってはいけない所ほど、
入りたくなる子供の心理は、子供ではなく、
自由を求める人間本来の心理なのかもしれません。
日本の神道
もし、
法律がなければ、
人は自由に人を殺したり、
人のものを奪ったりすると思われるかもしれませんが、
僕はそんなことはないのでは?と思います。
日本は仏教の国ですが、
日本に仏教が伝わるはるか昔から、
「神道」という考えがありました。
通常、宗教は、
ある特定の神を信仰し、その宗教の掟を護り生活をすることです。
しかし、
古き時代の日本人が持っていた「神道」には、
特定の神様ではなく、八百万の神と言って、
あらゆるものに神様が宿ると考えていたそうで、
しかも、
教祖、創始者がおらず、キリスト教の聖書などの、
正典すらない。
言わば、
誰が創始者でもなく、教祖も存在せず、特定の神様だけを信仰することなく、
神道とは?を記した正典すら存在しない。
そんな常識はずれな宗教が神道であり、
私たちが日本人に根付く考えです。
出土する遺跡や、遺骨を調べても、
いまだに古来の日本人が争いごとをしていた時期が皆無なのだそうです。
もちろん日本にも内乱時代はありますが、
最近では江戸時代の2百数十年間、
一切の争いごとなく平和を保っているのは、
世界的にも見ても類まれなことです。
なぜ、
法律も、特定の宗教もない日本人に、
ほとんど争いは見られないのでしょうか?
人々を束縛する義務が強いほどそれに反発する人も増え、
束縛する義務がないほど、
案外人は、平穏なのかもしれません。
日本人が世界から賞賛される理由を知っていますか?
その一つに、
仏教以外の宗教の神も、神として崇めることができる民族である。
ということが世界的に言われています。
通常、
信仰する宗教の違いから、
戦争や内乱が起こり、
民族浄化と言う名の虐殺まで起こることがあり、
今この瞬間にも、そのような理由で人がどんどん亡くなっています。
しかし、
日本人は、どの国のどの宗教の神様にも、
敬意を持って接する事が出来る民族です。
これが、出来る理由は、
あらゆるものに神様が宿り、それを大切にすると言う神道の考えからきています。
そんな日本古来の考え方は、
どこか美しく、人間の本質を表すようなことに感じてなりません。
義務が悪いか良いかより、あなたのルールを作ろう
義務が良いか悪いかという二元論は、
あまり意味もなくて…
義務というルールがあるから、
僕たちは楽しく生きることができると思います。
その反面、
その義務が強くなりすぎて、
精神的に不調を来す人も多いのです。
僕が大切だと思うことは、
世間のルール、他人のルールは尊重しても、
そのために、
自分を犠牲にして生きる必要はないということです。
あなたがやりたいこと、生きたい道を進むちょっとした勇気と、
そのための義務(ルール)を持って、
人のルールを尊重して生きていきたいですね。
あなたは、
人の期待に応えるために生きていませんか?
自分のために生きることは、
自分勝手だと思っていませんか?
他人に認められたり、よく思われたりすることが、
自分のやりたいことだと思っていませんか?
本当に、
周囲の期待に応えて、人を笑顔にしたいのであれば、
まずは、
あなた自身が心から笑顔でいなければ、
それは叶わないでしょう。
義務の意味を今一度見直してみませんか?
まとめ
今日は、義務感について、様々角度からお話しました。
義務感は、
大切なことではありますが、
少し認識が変われば途端に身体の不調として、
現れます。
自分には、どんな義務感があるでしょうか?
私たちが生きる世界で、
「しなければいけないこと」は何一つないのかもしれません。
もしも、
しなければいけないことが一つもなければ、
あなたは何をしますか?
ぜひ一度考えてみてほしいのです。
その答えが、
すぐに出ない人は、
毎日の生活を他人のルールのために生きているかもしれません。
この記事が、
一人一人の生きる世界に疑問を投げかけることができていれば幸いです。
乱文でわかりにくいことも多いと思います。
ぜひ、ご興味ある方は、ご質問いただければと思います。
それでは今日はこの辺で!