人生において、病気や怪我は、
そこだけ切り取ると苦痛だし、不便だし、いいことなんて何一つない!
って思うほど辛い出来事でもあります。
でも、一方で、
そういった一時の不幸も、
人生の長いスパンでみると人の可能性を広げるきっかけとなる神様からのギフトかもしれません。
今回のブログでは、
「病気や怪我がその人の可能性を無限に拡大した」お話をご紹介したいと思います。
ぜひ読んでみてください。
そして、あなたが今悩んでいることは決して無駄ではないことを少しでも感じていただけたら幸いです。
これを読むと、人生で無駄なことなんて一つもないんだなあ。ということがわかると思います。
今日は、
「車椅子バスケット 京谷和幸さん」の半生をご紹介させていただきます。
車椅子バスケット 京谷和幸さん
![パニック障害は自分に必要な症状](https://daikuu3.com/wp-content/uploads/2017/05/sakka-.png)
元車椅子バスケット日本代表プレーヤーとして、
パラリンピック4大会連続で出場し、
2012ロンドンパラリンピックの終了とともに現役を引退されて、
今は、指導者をしながら全国で講演会などの活動を精力的に行なっている京谷さん。
パラリンピックに4大会連続で出場するなんて、ものすごいことで、
まさに車椅子バスケット界のレジェンドと言えます。
実は京谷さん、
高校時代はオリンピック代表候補にも選出されるほどの注目された超高校級サッカー選手だったんですね。
小中高とサッカーずけで、ずば抜けた才能を持っていた京谷さん。
高校卒業後は、
東日本JR古河サッカークラブ(今のジェフユナイテッド市原・千葉)に、
入団され、その活躍が大きく期待されていたのです。
入団後すぐに頭角を表した京谷さんは、順風満帆にプロサッカー選手としての人生をスタートさせ、
22歳の時には同期入社の女性の方と結婚することが決まり、
人生の最高潮で、
これからもどんどん楽しいことが待っている予感です。
しかし…、
結婚式を目前に控えた、式の打ち合わせの日に悲劇が起こります。
京谷さんの運転する車に、
脇道から出て来た車が出会い頭に衝突。
京谷さんは避けようとしましたが、避けきれず、
電柱に激突し、
第五胸椎を損傷して、みぞおちから下の感覚が完全になくなってしまったのです。
サッカー選手、京谷和幸さんの人生はこの日を境に一変したのです。
プロサッカー選手が脚を奪われる。
これがどれほどの衝撃的な事実なのか、
僕には計り知れません。
当然受け入れることはできない事実だったでしょう。
事故直後、下半身に麻痺が残ることを伝えられた京谷さんは、
泣いたり、八つ当たりをしたり、相当荒れたようです。
しかし、
この事故の11日後に、当時の彼女だった現在の奥様から「入籍しよう」と言われたそうです。
「こんな俺と?」
おそらく京谷さんはこう思ったでしょう。
でも、その瞬間から
「自分のために頑張る」のではなく、
「奥様のために頑張る」と気持ちが切り替わったそうです。
自分のためなら頑張れないことでも、
なぜか人を喜ばすことなら頑張れてしまうんですね。
そして、
それまでの自分のサッカー人生を振り返り、
京谷さんはこう語っています。
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事故を起こす前、サッカーをやっている頃は全部自分中心でした。
「全部オレのためにしろ」って。「オレ様キャラ」だったんです。(笑)
でも事故を起こしてから、いろいろな人に助けられている自分に気づいたんです。それまでは本当に「人は一人で生きていける」と思っていました。でもケガをして初めて、いろいろな人に支えられ、助けられて生きていることに気づき、「ありがたいな」という気持ちが心からわいてきました。
自分の故郷の北海道から、わざわざお見舞いに来てくれる親友がいましたが「自分だったら絶対に行かないな、でも来てくれたんだ、ありがたいな」と、そしてその思いに応えなくてはいけないと感じました。入院生活以後は、人に何かしてあげることで自分に返ってくるようになりましたね。もうそれが習慣になりました。もし事故に遭っていなかったら、どうしようもないスポーツ選手だったと思いますね。
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それから、
リハビリを兼ねて車椅子バスケットに誘われて初めて参加しました。
初めは、車椅子バスケットを
障害者のスポーツとしてしかみていなかったが、
競技に参加する選手たちの意識の高さに、
驚いたと同時に、
それまで「障害者スポーツ」としてみていた自分自身のことをとても恥ずかしく思ったそうです。
そして、
それまで車椅子バスケットを、
「リハビリにもなるしやってみるか」という感じだった京谷さんを、
パラリンピック4大会連続出場をやってのけてしまう程に、
アスリート魂に火をつける出来事
が起こるのです。
それは、ご自身の結婚式の時でした。
サッカー選手時代の同僚も訪れ、その席でこんなことを言われたそうです。
「体、大丈夫か?」
「残念だったな」
それは、サッカー選手時代の京谷さんを知っていて、
今車椅子で生活している姿をみて思った本音であって、
決して悪気があった訳ではありません。
しかし、
京谷さんは、
「今までの京谷しか認めてもらえてなくて、これからの京谷を見てもらえていない気がした」のだそうです。
それに腹がったという京谷さん。
その式の最後の新郎挨拶で、勢いでこんなことを宣言します。
「車椅子バスケットを始めました。アトランタは無理だと思いますが、次のオリンピックを目指しますので応援よろしくお願いします」
この時はまだ本気で車椅子バスケットをやっていた訳ではなくて、
所属チームはの日本一の車椅子バスケットチームだったこともあり、
パラリンピック日本代表どころか、所属チームですら補欠選手だったのです。
それを知っている人が聞いたら、
「え〜?なに言っちゃてんのよ〜」って思ったでしょう。
何より、本人が、
「勢いで、言っちゃったー(≧∀≦)」って感じだったかもしれません。笑
でも言ったからにはそれに向かって努力するのがアスリート。
そこから練習しまくり、
食生活も気をつけて、
メキメキ腕をあげていきました。
その結果どうなったのか?
…そうです。
みなさんすでに読んでいただいている通り、
本当に車椅子バスケット日本代表として16年間もの間代表チームに所属するという快挙を成し遂げたのです。
そして、京谷さんは、
自身の怪我を振り返って、こんなことをおっしゃっています。
もし自分が事故に合わなければ、ダメな京谷だったでしょうね。(笑)
最近では「お前が感謝とか言うな」、「そんな言葉お前から出てくるのか、偉くなったな!」と先輩たちに言われます。(笑)
昔は本当にやんちゃだったんです。
事故でサッカー選手が両足を失い、
しかも、プロサッカー選手ですから職まで失う結果です。
そこだけ切り取れば不幸のどん底のように見えませんか?
事故が起き、自分の両足が麻痺したことは事実ですが、それをどう受け止めるかは自分が決められます。
京谷さんは、
自分の両足を失う事故を、
自分に必要な経験で、
事故があって今の自分があると語っています。
事故に感謝すらしていると思います。
まさに事故が京谷さん可能性を引き出したということでもあるかもしれません。
最後までお読みいただきありがとうございました。